17世紀の輸出最盛期から一度、大火災や鎖国を機に激動の時代を迎えた有田焼でしたが、第2回パリ万博を機に再び世界の人々を魅了することとなります。パリ万博で成功を収めた有田焼は、その後も世界中の人々を魅了することとなります。



1873年に開催されたウィーン万博から、日本は新たに明治政府として正式に万博に参加することとなりました。大隈重信が事務総裁、佐野常民が副総裁を務めたほか、当時約4ヶ月間ほど有田に滞在し、有田焼の技術革新に大いに貢献したドイツ出身の化学者ゴットフリート・ワグネルも顧問を務めました。



ワグネルは日本の経済成長のために大きく貢献した人物であり、コバルト顔料の使用、釉薬の研究、そして石炭窯の開発を行うことで、有田焼の品質と生産効率を大きく向上させました。この時代は、社会経済が大きく変化するなかで国内外の他の磁器産地との競争が激化しており、有田焼が磁器産業として生き残っていくためにはこうした高度な技術革新が必要不可欠だったのです。


こうしたワグネルの功績は高く評価され、「海外からきた人物でありながら、その心は日本の国のために常に向いている」と信頼を得ました。彼は佐野の強い要望を受けて博覧会への出品物の選定や海外向けの目録・説明書の作成などを行いました。




 万博に参加するにあたり、日本ではどのような製品を海外にアピールするべきかという問題に直面していました。当時は機械産業による商品製造も活発に行われ始めていた時代であったため、その機械的な技術力をアピールしたいという案も多く出ましたが、

 

「未熟な機械製品ではなく日本的で精巧な手工芸品を」というワグネルの強い思いと助言が功を制し、小さな鳥居のある神社や日本庭園に、陶磁器、漆器、銅器など、日本の古美術工芸品を展示した日本パビリオンは結果として海外の人々から高い好評を受けました。売店では手ごろな工芸品を手に入れるために、こぞって世界中の人々が押し寄せたそうです。


 

 万博終了後、イギリスのアレキサンドル・パークという商社が日本庭園の全てを丸ごと買いあげることを希望し、万博に出品された美術工芸品の販売を目的とした貿易商社も国内に設立されました。同社は1876年のフィラデルフィア万博でも出品・販売を代行し、ニューヨークやパリに支店を開き、1891年に解散を迎えるまで、日本製品の輸出と外貨獲得に貢献しました。


 フィラデルフィア万博では、香蘭社の出品した有田焼が名誉大賞を受賞、深海墨之助や辻勝蔵といった名工の作品が栄えある金牌賞状を受賞しました。香蘭社は、元禄2年(1689年)創業のメーカーで、世界各国で数多くの名誉金牌を受賞した有田焼の美術工芸品、食器、骨壷や万華鏡など多彩な商品の製造販売を現在も行っている伝統ある会社です。

有田焼の人気は世界でも留まることを知らず、万博をきっかけとして日本製品の海外輸出は今まで以上の盛り上がりを見せることとなりました。

万博による大きな経済発展が繰り広げられた明治時代において、有田焼は輸出産業のエースだったのです。



こうした日本の経済発展の歴史をみても、いかに有田焼が誇る日本の職人技術が世界を動かし、大きなインパクトを与えたのかを垣間見ることができますね。





×